この手は傷だらけ



あと五分で昼休みが終わる。優雅にコーヒーを飲みながら、美術準備室に持ち込んだソファでくつろいでいた明本昌器はふうっと息をついた。半分ほどに減ったカップの中を覗き込むと、白いはずの肌も、薄茶の髪もどんよりと黒く濁って映る。口内にじんわり広がった苦味に昌器は丸みのある、二重の瞳を細めた。
今日はもう授業が入っていないが、昌器には頭を抱えるだけの悩みの種がある。今日は、二年生のクラスの課題提出日なのだ。しかも、あと五分で文字通り締め切りである。
火曜の昼休みまで、というのは昌器には最大の譲歩だった。本当ならばもっと早く帰宅できているものを、たった一人の生徒のために辛抱しなければならない。
そう、授業時間内に仕上げられなかったのはたった一人なのだ。
白橋鋭介は尋常でなく凝り性で、頭のおかしくなりそうな細かい作品を毎回描いてくる。何度もこうして待たされてもたまらないので構想段階で一応は止めるのだが、頑として利かない。意思の弱い生徒にはやめておけときっぱり言える昌器だが、彼はどうも、その手には乗ってくれなかった。
「まあ、……来るだろうからいいんだけど」
ことんとカップを、これも持ち込んだテーブルに置くと腕を組み、ところどころにしみのある天井を見上げた。創立七十数年をかぞえるこの高校に非常勤講師として赴任したのは三年ほど前、二十七のときだ。以来幾人もの面倒をみてきたが、鋭介ほど緻密でやりすぎのものを作る生徒はほとんど覚えがない。描くのが好きな昌器でも、「これは病気の域だよ」と本人を前にして苦笑してしまうほどだ。
クラスには美術部の生徒もいるが、そうでない彼のほうがよっぽど美術部らしかった。
しかし、昌器は、彼のことをそれなりに信用している。どんなにぎりぎりでも締め切りを守ってくれるのだ。だからこそ昌器は慌てることなくここで彼を待てるし、気持ちのいい子だと鋭介を信じてやれた。まだ五分ある。そんなふうに思える。
「先生っ! 提出しに来ました!」
どたん! と豪快に準備室のドアが開いた。ああ来たなと昌器はゆっくりと起き上がった。扉が乱暴に、勢いよすぎるほどに開けられるのは毎度のことだ。もう少し優しく扱ってやれと言っても、ありあまった体力がそうはさせないらしかった。ここの扉は立てつけが悪く、この際壊してくれたほうが都合がいいかもしれない。
「よし、三分前。見せてみ」
「はい、……はあ……疲れた」
また教室から全力疾走してきたのか、鋭介はぜえぜえ肩で息をしていた。きゅっと口角の上がった唇がだらしなく半開きになっている。くっきりした、やわらかな印象を与える目元がなんだか救いを求めてでもいるように昌器を見つめてきた。
安堵とも笑いともとれないようなため息が抜けていった。
「……座れば」
真ん中に座っていたのを少し端にずれ、鋭介のぶんのスペースを空けてやる。ひいき、と言われてしまえばそこまでだが、提出のたびにこれで、さすがにほかの生徒よりも彼とは仲良くなってしまった。それに作品提出がなければ成績がつけられず、残念な結果が待っているのだ。「先生」としてはなんとか待ってやりたい気にさせられる。
鋭介はなんのためらいもなく昌器の隣に腰を下ろすと、B4サイズの厚紙を手渡してくる。課題は、平面構成である。
見た瞬間、眩暈がした。
「白橋、やっぱりおまえ、病気だよ」
「細かい作業が好きなだけですって」
眼鏡を外していてよかったと心底思った。これは見えすぎるのはよくなさそうだ。さまざまな模様が整然と、美しく並んで調和している。色も綺麗に載っているし、いつもどおり質が高い。頭をくらくらさせながらも、今日も間に合ってくれたことに昌器はほっとしていた。
「しかもバスケ部だろ? がさつな運動部がなーんでこんな細っかいもん描くかなあ」
「繊細さに部活は関係ないですよー差別です差別」
「はいはい、悪かったよ」
背もたれから浮いている背中を軽く叩く。さすがに毎日しごかれているだけあって厚みがある。適当に切りそろえられた黒髪はくせっ毛なのか毛先が跳ねており、襟足の近づくにつれ落ち着いていく。撫でたら、よく手に馴染むかもしれないと思った。
「じゃ、俺行きます」
すっと立ち上がり、正面に来た鋭介が軽く頭を下げる。始業まであと一分もないが、彼が急がないのはいつものことだった。作品に全力投球しすぎてとても次に間に合わせる場合ではないらしい。さぼりたければさぼればいい、と投げやりなスタンスの昌器は、さして彼を急かさなかった。出るも出ないも、すべて本人の責任である。いくら大人が促しても無駄なときもあるだろう。
頷こうとして、ずいぶんと鋭介を見上げなければ目が合わないことに気づく。昌器は軽く笑みを作りながら、固そうな腹筋をぽんぽんと打った。
「白橋、でっかいなあ。百八十ある?」
「八十三です。先生は七十ちょいくらい?」
「ああ、そんなもんかな。成長期と比べるなよ」
答えると、とくに反応はなく、ただ鋭介がこちらをじっと見つめてくる。背後で授業開始のチャイムが鳴りはじめた。しかしもの言いたげな彼を帰すわけでもなく、昌器は鋭介を見上げていた。待つのは、さほど苦ではない。
「白橋?」
ふっと、鋭介が腰を折り、顔を近づけてきた。首を傾ぐと、しっかりした骨づきの手に頬を捉えられる。やばい、と身体を離そうとしたときにはすでに唇が重なっていた。
触れるだけの、ひどくやわらかなそれに昌器は抵抗を忘れてしまった。二、三度繰り返され、あっけなく力が抜けてしまう。反射的に相手の身体を探ろうと腕を伸ばしかけた瞬間、彼は離れていた。あろうことが名残惜しさのようなものが昌器の胸にわだまる。
「わぁ先生唇ふにふに! あ、つかチューしちゃった! ごめんなさい! 俺先生のこと好きなんだ!」
「え、白橋……なんだって?」
ふわふわ、せっかく夢見心地でいたのを一気に現実に引き戻された。キスをしてきたのが自分の生徒であることも、授業がはじまった時間であることもすっかり頭から抜けていた。
口元を覆うこともできず、聞き捨てならない、というよりは聞き間違いじゃないのかと昌器は鋭介をまじまじと見返した。
「先生が好きなんだ。言うつもりなかったんだけど今勢い余っちゃったから白状します」
およそ、真剣さなんて感じられない言い方だった。鋭介の言葉通り、ついうっかりやってしまった、そんな調子だ。
照れてでもいるのか、やたらにこにこしている鋭介はしかし、冗談だとも言わないし、ごまかす素振りもない。
「だめですか?」
「だめって、だめだろ……生徒だし」
へらっとした表情は崩さないままだったが、鋭介がなんとなく自信なさげな視線の動かし方をする。昌器を正視してはきても、はっきりとその位置が定まらない。頭の先や目、頬や胸元に移動し、落ち着きがなくなる。ふと鋭介の手を見ると、かすかにふるえていた。
「男なのはいいんですか」
「ああ俺バイだから……ああいやそうじゃなくて先生と生徒はだめだろ。あと俺年下は嫌なの。だからだめ」
「えー、そんな心の狭いこと言わないでくださいよー」
「狭くない。好みの問題だよ。前半は常識の範囲内だろ、しかも」
よく聞くと、声も普段の彼ではなかった。常ならば深く、人当たりのよさそうな中低音が今は尻込みするように乱れている。昌器はあえて鋭介の緊張に気づかない振りをして、できるだけ飄々と受け流した。にかわに鋭介の顔が曇る。きちんと言葉の意味を解してしまっては、ほだされる確率が上がりそうだった。
ふいに腹を撫でるようにしてやったのは、まぎれもなくちょっとした意地悪心からだった。鋭介を窺うと、案の定まんまと引っかかって唇を噛んでいた。肩をすくめ、いたずらっぽく笑ってみせる。
「俺、逮捕されたくないし」
「あ、それ脈ありみたいなことですか?」
「馬鹿」
ばしん、とことさら力を込めて昌器は鋭介のわき腹を平手で打った。脈あり、なんてとんでもない。本当に、年下は趣味ではないのだ。
基本的に昌器は甘やかされるのが好きで、全面的に相手に寄りかかるほうである。仕事柄一回り以上も年下の子どもと毎日接するせいで、余計に自分をすべて委ねられる相手が欲しかったのだ。
現に今まで付き合った相手は余裕のある雰囲気の年上だけである。たぶん、長く続かないのもこの昌器の気持ちの重たさが原因だろうことは、本人も一番よくわかっていた。
そんな人間を、まだ十七歳の少年が受け留められるとは考えにくい。
「ないよ、そんなものは……なんだよ」
鋭介を幾度となくはたいた左手を、彼がそっと握ってきた。大きくて、自分とは違い傷一つない手だった。綺麗な手には憧れる。ひどく、惹かれる。
「先生、あ、違うな。……昌器さん。やっかいなこと考えるのいったんやめませんか?」
「あっ、おい……」
すうっと、手が持ち上げられる。かがみこんだ鋭介の唇が甲に触れ、なにも言えなくなった。さっきまでの動揺ぶりが嘘のように彼は落ち着いていて、どきりとさせられる。その瞳に恐ろしいほど迷いがなく、ああこれは勝てないと、ますます目を逸らせなくなった。
「昌器さん、あなたのことが好きです。俺と付き合ってくれませんか?」
先生ではなくあなたが好き。
言葉と視線と、さらには手から沁みてくる体温が訴えていた。そもそも、手を取られてここまで直裁に、きっぱりと好きだなんて告げられたのはいつ以来だろう。
「……ずるいな」
大人の世界と子どもの世界。好きだけでは解決できない、難しい問題だ。しかしたった、そんな倫理を理由にあっさりノーと切り捨ててしまうには、あまりにも鋭介は熱っぽすぎた。
鋭介はただ黙って手を掴んだままでいる。時おりなめらかな親指の腹が甲を撫でていき、やがて彼の顔を見ていられなくなった。
彼は、なんて優しい顔をするんだろう。
「あー……わかった。考えとく……ってのは」 俯きながら、声をさまよわせながら、昌器はつぶやいた。未だ昌器の手を包んでいる妙に大人びた手。この綺麗な手に免じて、ひとまずほだされてやろう。妥協案を差し出した理由を、そんなふうに思うことにする。
「……嬉しい」
それは噛みしめるように、頭の上から聞こえてきた。初めて、ぎゅうっと強く手を握られる。はっとして鋭介を仰ぐと、彼はあきらかにほっとした面持ちで頬をゆるめていた。
ああ、こいつは年下なんだっけ。
またしてもふわふわした場所を自分が歩いていたのに気づいて、昌器は意識的に背筋を伸ばした。
「さっき、コーヒーの味がちょっとしました」
手を膝の上に戻された。捕まえられたときと同く、そっと、大事なものを扱うような仕草だった。はにかみながらそれだけ言って踵を返した鋭介の背中を、部屋を出て行くまで見つめてしまう。
ついと、テーブルに置いたコーヒーを一瞥した。ふたたびカップに口をつけるのには時間がかかりそうかもしれない。
ほとんど無意識的に、昌器は下唇を舐めていた。


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